Keisuke Fukase 深瀬啓介

クリエイティブなエネルギー

例えばカタツムリの殻があまり汚れていないのは何故か、モルフォ蝶の羽の色は日光に当てても色褪せないのは何故かなど、自然の中にある実は凄い仕組みを少し知った時、自然というのは相互的関連性の上でとても細かくデザインされているものであると私は感心する。

“誰が”というよりも、それぞれが自ら関係性を創り出しているようにも思える。たぶん、環境との関係性を上手く構築出来ると生存の可能性が高まるのだろう。さらに新たな関係性を発見し、最適化されると生存の可能性はもっと高まる。これを進化というのだろう。

それは誰かが客観的にデザインしているのではなく、だからと言ってそれらの主観的意識でデザインできたわけでもなく、そのような仕組み・法則・エネルギーのような“何か”がそうさせている。これを名付けるなら、「神のデザイン」または「クリエイティブなエネルギー」といった感じである。

中にはどうしてそのようなデザインになったのかは分からない物や、進化の過程で不要となったものもあるが、それらが必要ないと言い切れるかどうかは分からない。

自然には人の頭では理解できないものが多いが、理解できない、または効率性や効果性が不明であるとしても、そこにまた別の何らかの仕組みが関係していることが分かると、その仕組みのためにそれが存在しているということに気づく時がある。なので、全く不要であるとは言い切れないのだ。

「クリエイティブなエネルギー」は常に環境や他のものとの関係性を創り続けている。今、この瞬間もである。その露見した一つの証拠がミラーニューロンなのだろうと私は考えている。猿の脳で発見されたこの神経システムは、他者の行為を見ただけで、まるで自分の行為のように脳にコピーしている。その理由は、学習や共感や予測などいろいろ考えられているが、他との関係性を求める一つの証拠であることは間違いない。

もう一つ重要なことは、環境は常に変わり続けるという現実である。なので、関係性を求める「クリエイティブなエネルギー」も常に変化に対応する必要がある。

ダーウィンが言ったのかどうかは知らないが進化論で有名な話しに「生き残った生き物は、最も力の強いものでも、最も頭のいいものでもない。それは、変化に対応できた生き物だ」というのがあるようだが、変化への対応は「クリエイティブなエネルギー」にとってとても重要な法則の一つではある。

デザインという視点で捉えるなら、例として上げられるのは企業のプロモーション用WEBサイトである。市場は常に変化しているし、企業も変化している。技術も進歩するし、環境も変わるし、人々には新しいニーズも生まれる。それに対応して企業も新しい商品やサービスを考えている。なので、以前作ったWEBサイトが今も有効かどうかは不明であるし、今は今で最適な形というのがあるのだろうし、もっと効果性を上げる工夫というのも常に存在する。

新聞広告だけやWEBサイトだけという一つのメディアだけに着目してデザインされたプロモーションというのは、それぞれに美しく見えたとしても、効果はそれほど期待できない。

それよりも、メディア、タイミング、サイクル、予算などを統合的に考えたプロモーションなら、メディア同士の相乗効果も期待できるし、工夫の余地も広がる。

つまり、企業としてもプロモーターとしても利益を生み出す幅が増えるのだ。

進化というのは“常に”起こすものなので、統合的なプロモーションサイクルを設けることができれば、さまざまな工夫で市場の変化に柔軟に対応でき、それらの経緯から多くのノウハウも蓄積されていくことになる。

環境との関係性を求め続ける「クリエイティブなエネルギー」のもう一つの法則は、対応できなくなったものは絶滅するということである。変化しないなら死ぬしかない。

“死ぬ”というのも一つの変化ではある。自然の「クリエイティブなエネルギー」の方から強制的に変化させられるということだ。

「クリエイティブなエネルギー」には個性というのがないようにも思える。「クリエイティブなエネルギー」は全体性なので、全て常に変化しているため、結局は全体的に変化していないのと同じというエネルギー保存の法則が成り立っているように私は考えている。

それでも、個々の局面においては変化は重要な問題である。局面においては、何をもって“個”とするかとうのが重要な課題となる。この課題のことを名付けるなら「自我(ego)」というだろうか。

脳の中ではシナプスという神経細胞のとても複雑な関係性が築かれている。例えば、ある神経細胞がある特定の関係性だけに執着して変化を拒んだとしたら、それは長期記憶ということになるだろうが、全体の神経細胞が変化を拒んだら困ってしまう。そのようなことが起こってしまうと、ある時記憶容量はいっぱいになってしまうだろう。そうなると死の危険性が上がる。新しいことを覚えられないというのはとても大変なことなのだ。

実際は記憶というのは思い出すたびに再編集されるようなので、思い出しては記憶しなおすという感じである。脳もちゃんと「クリエイティブなエネルギー」の法則に則っているのだ。

私たちには意識がある。そして意図を持つことができる。それは素晴らしいことだ。もう一つ、個の意識ではどうしようもない「クリエイティブなエネルギー」というのがある。そのおかげで私たちは存在しているが、「クリエイティブなエネルギー」は関係性を重視するので、関係性から独立して永遠に完成された「自我」を作ることはできない。つまり、そのような意図は叶うことはないのだ。

逆に、多くの関係性に着目し、それらとのより良い関係を作ろうとすると何かが得られる。意図を使うなら、「自我」の目的よりも「クリエイティブなエネルギー」の目的に沿うと幸せになるということである。

それなら、もっと様々な関係性を発見して、それらとの最適化を目指せばもっと幸せになるだろう。生存率が上がることが幸せかどうかは知らないが、少なくとも「クリエイティブなエネルギー」に従った分楽に幸せになれる。

私はこの「クリエイティブなエネルギー」のことを“命”と言い換えても良いのではないかと考えている。個を超えた“命”という視点を持った時、窓のそとに見えている街の姿はどのように変わるだろうか?宇宙をどのように思うだろうか?

深瀬啓介