Visionary Artist Keisuke Fukase 深瀬啓介

視覚的な体験とは何か?

“見る”とは本当はどういう体験なのだろうか?
私が見ている景色は“多くの人”が“肉眼”で見ている“普通の景色”なのだろうか?
“多くの人”とは誰か、本当に人は“肉眼”で見ているのだろうか?
“普通の景色”とは何だろうか?

どうやら私は、“多くの人”と共有できない視覚体験をしているようで、そこに気づいたのは幼い頃に色の名前を教えてもらっていた時だった。

世の中にはたくさんの色があり、物体の輪郭線の中にも物体の輪郭線の外にも色はある。保育園の皆んなは輪郭線の中の色の認識が素早くて私は混乱した。

この世界には光の粒々がぎっしりつまったように見えるが、保育園の誰とも話しが合わない。小学校では、白っぽい人が教室に入って来ても誰も気にしない。

絵を描けば「デッサンが下手だ」「よく見ていない」と言われるが、どんなに見ても、皆んなが描いている絵のようには見えなかった。私は皆んなのように輪郭線だけを正確に見ることはできないのだろうと悩んだ。

美術系の大学の実技試験のために絵の予備校に通い、毎日デッサンして分かったことは、私には輪郭線だけではなく、空間の認識さえも難しいということだった。そこで「パースペクティブ」という頭の中で構造を考えて描く方法を学んだ。

“多くの人”が見ているような世界のデッサンは非常に難しかったが、色彩を構成する実技はとても得意だった。色彩構成は自分が見ている世界を描くだけで良かったからだ。

大学では他者と色を共有するには“色の体験”ではなく“色の数値化された表現”しかないと考え、カラーマネージメントについて研究した。しかし、自分の見ている視覚的な世界については全くわからいままだった。

四十になったある日、思い切ってSNSで「本当はこんなふうに見える!」という絵を公開した。色の見え方も、空間の認識も“多くの人”と違うことを公にするのはとても勇気が必要だったので、とうとう四十になってしまった。

このSNSでの公開で、新しく知り合うことができた方から物体の外の色は「オーラ」だということを教えていただいた。こうして新しい視覚の探究が始まった。

視覚について探究してきた今の私の考えはこうである。

多くの人が「みんな同じように見ている」と当たり前のように信じているけれど、実際は一人ひとりそれぞれの視覚体験をしている。

肉眼は視覚的な体験に関わっているが、実際はインナービジョン(内的な視覚)で物を見ている。

外部から観測できる脳の働きというのは、インナービジョンで見ている時の変化であって、脳が直接の視覚体験を作っているわけではない。

インナービジョンは個人の認識のフィルターを通して映像が作られているので客観的な映像ではない。

人々が共有していると信じている外部の色や形などの情報とは、実は電磁波の刺激のことであって、そこに客観性はない。

さらに、見えている色や形は個人のインナービジョンで表現された視覚体験であって、そこにも客観性はない。

私には“普通の人”が見ているような人の顔は見えない。そのため、“普通に見える”似顔絵を描くことは難しい。

また、私は“自分の腕”の力を抜くと半自動的に絵が描かれるが、多くの人はそうではないらしい。半自動的な絵を描いている時はとても平和な気持ちになる。

でも普段は神経が全て飛び出したようにいろんな刺激に敏感になりすぎるため、小さなことでドキドキしたり、何かあるとイライラしたり、すぐに疲れてしまう。

それでも今まで何とか生きてこれたのは中学の頃に学んだ瞑想のおかげだが、瞑想をしたからといって“穏やかな性格”になったわけではない。世界の認識にいちいちビクビクしなくなったくらいである。

半自動的な絵を描き始めると手の力は抜けて軽くなり、心の中に感謝と平和が溢れ、目を開けていても内的な映像(夢)が見える。“夢”は立体的で、意識を向けると匂いや音や手触りや温度も感じられるため、気をつけないとそのまま眠ってしまう。

私にとって絵を描くということは、「自分に嘘をつかない生き方」なのだ。

深瀬 啓介